内容

企画展示室

発祥の地、下関

民俗芸能

No1八丁浜
●とき
1598年頃?
●由来
♪ぽ〜んちかわいや ねんねしな〜 品川女郎衆は十匁〜・・・♪と言うお囃子を聞かれたことはありませんか? 今は「博多どんたく」のお囃子、と思っている方がほとんどでしょう。実はこのお囃子は、下関の亀山八幡宮の五穀祭に唄われたものなのです。 下関では今でも、「海峡まつり」の時に行われる「八丁浜踊り」のお囃子として使われています。

「どんたく」にこの唄が使われ始めたのが、明治38年頃。一方、「八丁浜踊り」の始まりははっきりしませんが、 慶長3年(1598年)頃亀山八幡宮前の海を埋め立てた時に、人柱となった「お亀さん」を慰めるために始まったようです。 その時の埋め立ての広さが八丁あったので、「八丁浜」の名前がついたそうです。もちろん、歌詞からも判りますが今のお囃子は明治時代になってからの唄のようですので、その当時は違ったお囃子だったと思います。明治になって使われ始めたこのお囃子が、明治20年代に下関の芸者さんが博多に移った際に一緒に伝わった、と言う説が一般的のようです。 他にも色々説はありますが、下関では「博多どんたく」のお囃子は下関がルーツだと言う事になっています。
イメージイメージ

食べ物

No1粒うに
●とき
明治のはじめ
●由来
明治の初め頃、外国人の水先案内人が六連島の西教寺(現在)で住職と海の幸を肴に飲み交わすうちに酒をこぼし小鉢に入った、その物を食べた住職が「これはうまい」と思った。それがアルコールうにの始まりで、その時の酒はオランダ刻印のあるアルコール度数45%のジンであったそうです。その後住職は、島のうに職人城戸久七にアルコールうにを作らせて、瓶詰うにが誕生したそうです。
下関市のうにの水揚量は、年間約15tで、そのほとんどが瓶詰うにに生まれ変わっていて、全国シェアの80%をしめ、ふぐ・くじらと並ぶ下関を代表する特産品となっています。現在製造会社は市内に11社あるそうですが、粒うににするには、手作業でないと粒が残らない様です。アルコール漬けにする事で殺菌・保存が可能となり、未開封の瓶うには2年位寝かせておいた方が味がまろやかになると言われています。一度試してみては!
イメージ

No2辛子明太子
●とき
昭和のはじめ
●由来
博多っ子の朝食に欠かせない『辛子明太子』。スケトウダラの卵をトウガラシ等で味付けした加工品ですが、下関が辛子明太子の発祥の地というのは、あまり知られていません。昭和の初め下関が大陸との玄関口として栄えた頃郷土料理として食べられていたものが韓国より伝えられ、これを日本人の口にも合うように味付けを工夫して作ったのが、辛子明太子の始まりです。
今や福岡市民の生活に密着した感のある辛子明太子ですが、その誕生は意外に新しく、福岡で作られるようになったのは終戦後の昭和24年頃と言われています。
イメージ

生活

No1床屋
●とき
1260年代(鎌倉時代後半)
●由来
唐戸にある亀山八幡宮の石段の脇に、「床屋発祥の地」という石碑が建っています。下関は「床屋」の発祥地でもあるのです。

亀山天皇(1259〜1272)の時代に、京都北面の武士「藤原基晴」は宝刀紛失の責任をとって、その息子「釆女之亮(うねめのすけ)」と共に下関で探索を始めます。当時は蒙古襲来のころで、鎌倉幕府が長門に大軍を配備していたため、下関にも沢山の武士がいました。親子は、当時下関で髪結いを商売にしていた新羅人から技術を学び、武士を相手に髪結いで生計を立てつつ、宝刀を探したわけです。この基晴親子が暮らしていたのが、亀山八幡宮裏の中之町で、ここが「床屋発祥の地」とされているのです。また、この店の床の間には、亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸がありました。きっとこの床の間が目立ったのでしょう、この店は「床の間のある店」と言われるようになったそうです。この「床の間のある店」が「床場」になり「床屋」になったと言う事です。
イメージ

石碑のある亀山八幡宮の鳥居

イメージ

「床屋発祥の地」の石碑


No2関門鉄道トンネル
●とき
1942年11月15日
●由来
関門鉄道トンネルは、昭和17年11月15日に開通した世界初の海底トンネルで、JR下関駅とJR門司駅間を結んでいます。

はじめは、下り線(下関→門司方面)のみの開通で、昭和19年9月9日に上り線も開通しました。

この関門鉄道トンネルは、明治29年10月に開かれた全国商業会議所連合会以来、たびたび話題になっていたが、なかなか決定までたどり着くことが出来ず、昭和11年7月になって、ようやく工事が始まりました。
現在、関門海峡には、関門鉄道トンネルの他に、二階建てで上が車道、下が人道の関門国道トンネル(1958年)、新幹線専用の新関門トンネル(1974年)が通っています。


【関門鉄道トンネルデータ】
トンネルの長さ     上り3604m
            下り3614m
(海底部分1140m)
工事期間        8年間
工事費用        3900万円
工事に従事したのべ人数 374万人


写真上  関門鉄道トンネル下関側入り口
ほどちゃんの島〜旅の写真館〜
http://www.people.or.jp/ ̄hodo/index.htm
写真下  関門鉄道トンネル工事のようす
社団法人 土木学会
http://www.jsce.or.jp/index.html
イメージ イメージ

スポーツ

No1プロ野球大洋ホーエルズ発祥の地
●とき
1949年11月22日
●由来
1949年11月、野球興行を目的として(株)まるは球団が当時の大洋漁業本社が当地にあった関係で、下関市大字大和町4番地に設立されました。
翌12月に読売ジャイアンツ・松竹ロビンス・大阪タイガース・広島カープ・中日ドラゴンズ・西日本パイレーツ・大洋ホエールズの7球団はセントラル・リーグを結成。(翌年1月国鉄スワローズが加盟。)翌1950年3月には社名を(株)大洋球団に変更し、同年9月には球団所在地を東京都千代田区丸の内2丁目2番地に移転しましたが、松竹ロビンスとの合併で大阪にフランチャイズを移す(その後、川崎へ)までの約4年間、下関球場をフランチャイズとして野球興行を行っていました。
因みに1977年までにユニフォームの袖についていた「まるは」マークは、大洋漁業の前身、林兼(はやしかね)商店(現在は林兼産業/本社:下関市)のブランドマークなのです(試合中の景品によくマルハソーセージが出ていた)。
横浜ベイスターズとなった今でも、年に一度の地方遠征時には当時の熱烈なオールドファンや林兼・大洋漁業関係者をはじめ、多くの市民や近隣のファンに親しまれています。
しかも何を隠そう当団地のS報社のF社長は、1960年の初優勝時、下関での優勝パレードにおいて、当時の土井捕手に抱きかかえられた写真がデカデカと新聞・雑誌等に載ったそうで(それがキッカケで子供モデルをしていたことがあったとか)、今もベイスターズを応援しています(・・ハズ)。
と、呑気にこの記事を書いていたら、マルハ株式会社がベイスターズ株を譲渡して筆頭株主ではなくなったといニュースが・・・。マルハ下関支社も出張所に縮小するくらいだから色々大変なんでしょうけどなんとも寂しい限りです。
まるは

ご存知「まるは」マーク!

パレード

98年優勝時の下関市内パレード


No2野茂英雄 「初勝利」の地
●とき
1990年3月11日
●由来
あのメジャーリーガーが
初めて勝ち星を挙げたのは下関だった!


スポーツのコーナーでも既出のとおり下関は大洋ホエールズ発祥の地。まぁ今となっては親会社も変わってしまったわけですが、2001年のオープン戦までは必ずホエールズ(後にはベイスターズ)の試合が行われていました。(2002年のオープン戦やレギュラーシーズンの試合も開催される事も期待したいところです。親会社になった某社の皆さん、お願いします)

下関球場で開催された1990年のオープン戦では近鉄バッファローズ(当時)との試合が行われました。
近鉄の先発は11年経った2001年にヤクルトのエースとなる入来(兄)。その事実も時代の流れを感じさせるものですが、その後の二番手のピッチャーが後にメジャーリーグ・アメリカン、ナショナルの両リーグでノーヒットノーランを成し遂げた野茂英雄。初登板では二回で四失点という散々な結果でしたが、2回目の登板となった下関球場ではピンチを背負いながらも3回を無失点に抑え、プロとして始めての勝ち星をあげました。
続いて8回と9回を無失点に抑えたのは吉井(モントリオールエクスポズ)。メジャーリーガーになることとなる2人の投手リレーを偶然にも見ることが出来た観客はわずかに8,000人。ああ、メジャーリーガーになる選手が投げるとわかっていれば見に行っていたのに…。
しかし当日の他の試合のメンバー表を見てみると、巨人の原(現監督)やオリックスのパンチ佐藤、ヤクルトでは長嶋一茂が現役だったりして、時代の流れを感じさせます。(資料:朝日新聞 1990年3月12日)

写真:下関球場
もちろん一般の利用もできるのでメジャーリーガーも立ったマウンドに立つこともできます。(実力はともかく)

イメージ

歴史

No1明治維新
●とき
1864(元治元)年12月15日
●由来
「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」
高杉晋作は藩内抗争に敗れて九州に潜伏中していましたが、京都の政変により追われて長府功山寺に潜む三条実美卿らに決意を述べて 山県狂介(有朋)らとともに遊撃隊と力士隊を率いて元治元年(1864)12月15日挙兵しました。
従うものわずか70人前後。そんな無謀ともいえるクーデターの決起したのがここ「功山寺」です。
晋作は野久留米街道をつき進んで下関の萩本藩の新地会所を襲撃、停泊中の軍艦三隻を奪い太田・絵堂の戦いで藩政府軍を破って「藩論統一」を成し遂げました。
それによって長州藩の討幕路線が決定づけられ、全国に飛び火して「維新」の原動力となったのです。
下関は下関戦争(四カ国連合艦隊との戦争)や砲台、奇兵隊の本拠地(現在は晋作の墓所・東行庵)など維新の震源地であったことを伝える史跡が多くみられます。下関が維新の大舞台であったのも、日本海側の米を大坂に運ぶ北前船の重要な寄港地として物資や情報が集まり、長州藩の財政を潤して、討幕のための資金を得ることができたためです。西郷や竜馬など維新の大物が訪れ、維新の重要な出来事はこの下関が絡んできました。まさに下関・長府は「維新」発祥の地なのです!
イメージ

高杉晋作回天義挙像

イメージ

紅葉につつまれた功山寺(山門)


その他

No1近代捕鯨
●とき
 
●由来
我が町下関市は明治期以降産業化した近代捕鯨発祥の地であり、日本有数の捕鯨基地として栄えていた。
日本では、鯨は古来から貴重な食材として活用されており、捕鯨法としては時代背景の移り変わりと共に原始的な(突取法)から(網取法)へと変化し明治中期になると捕鯨砲を用いた「ノルウェー式捕鯨法」(近代捕鯨)へと進化していき、これにより鯨の捕獲量も爆発的に増大しやがて捕鯨産業はわが国の産業として根付いていった。
下関では岡十郎氏が明治32年に近代捕鯨による日本遠洋漁業株式会社を設立したのをきっかけにやがて日本有数の捕鯨基地として栄えていくことなり、「鯨の街下関」として名をはせた。
だが、栄えていた捕鯨産業も1985年IWCが商業捕鯨の全面禁止を決議し、やがて衰退し、食卓から鯨の姿消える事となった。
しかしながら現在に至っても我が町下関には鯨との密接な関係は存続しており、近年リニューアルオープンした水族館「海響館」では日本で初めて世界最大鯨類シロナガスクジラの骨格標本が展示されており下関のシンボルとして人気を得ている。
また、2002年にはIWC国際捕鯨委員会年次会議が下関市で開催されることが決定しており本来の捕鯨のあり方について議論が繰り広げられ街全体として盛り上がりを見せることであろう。
そしてこれからも下関市は形こそ変わってしまったが鯨をシンボルとして活気づいていくことであろう。
イメージ イメージ


このページのTopへ